2013年2月26日火曜日

連載「ゲーマーのための読書案内」第29回:『イスラーム戦争の時代』_1

 「ゲーマーのための」という冠を戴きながら,いわゆる入門書を紹介することがめったにない本連載であるが,rmt,これは「目黒のサンマ」を避けたい気持ちが強いためである。読みにくさと一緒に,面白さまで洗い落としてしまっては元も子もない。  そうしたスタンスを取るなかでも,そんな心配はいらない入門書といえるのが,NHK BOOKSの1冊,内藤正典氏の『イスラーム戦争の時代 暴力の連鎖をどう解くか』である。ぱっと見題名は過激だが,別にイスラム過激派のテロに各国がどう対抗するのかといった,エキセントリックで皮相な本ではない。むしろそうした皮相な見方を,深く広い現実認識で払拭してくれる存在である。  ブッシュ大統領のイラン危険視発言など,イスラム圏と欧米社会との衝突はなおも絶えない昨今だが,口の端にのぼる割に我々の大多数はおそらく,イスラム圏の考え方を知らない。それどころか,各国社会のあり方に接したムスリムが,果たしてどんな違和感や失望を抱く可能性があるのかを,理解しようとした経験も,ほとんどないだろう。要はイスラム圏に対する論題の立て方すら知らずに,テロだのジハード(聖戦)だのと話しているわけだ。  著者は長い研究生活,そして少なからぬイスラム圏への滞在体験に基づいて,論題を立てるのに必要な切り口を豊富に与えてくれる。よそ者を歓待し,病気にでもなったらきちんと看病するのが,アラーに課された義務だという観念などは,その最たるものだろう。イスラム圏で相手の親切を断ると,相手がすごく困った顔をするのは決して社交辞令ではないし,もっと言えば親切にする人/される人だけで完結する問題ではないのだ。  そうした深いイスラム社会体験をベースに据えつつ,ヨーロッパ各国で起きるムスリムと現地社会の齟齬を理路整然と説明してくれるのも,この本の大きな魅力といえよう。  キリスト教の分派に対する寛容さから,イスラム教にも寛容だったオランダ社会が,ムスリム人口の増加につれて「あれ? こんなはずじゃ」と戸惑い始める様子は,多かれ少なかれ欧米社会によく見られる光景だ。観念上は平等に扱われるべきだと考えていても,本音のところでそれを具体的に想像してみたことはない。これはどんな国や民族にも見られる,無意識の自文化中心主義である。  また大革命以来,政教分離の強力な原則を築いてきたフランスでは,キリスト教かイスラム教かが論点ではない。宗教生活と世俗の生活を切り分けること自体が,非常にヨーロッパ的/フランス的なあり方であって,ムスリムにはそれが抑圧と感じられることもある。「学校で十字架はダメ」にキリスト教徒が納得したとしても,それは「学校でスカーフはダメ」にムスリムが納得する/しないとは別問題なのである。  国内有力政党が宗教国家に舵を切りそうになるたびに,国軍がクーデターでそれを阻止してきたトルコでは,EU加盟を目指すがゆえに強権に訴えられなくなり,ヨーロッパと共同歩調を取ろうとすればするほど,国がイスラムに傾いていく。このパラドックスは,イスラム社会と近代化をめぐる問題の,一筋縄ではいかない側面を教えてくれる。  におけるイスラム教過激派の政権,そしての中栠B合といった例を挙げて,大味なエンタテインメント作品に細かな文句を付けるのも少々アンフェアな気はするが,やはりこういったあまりにも一括りに捉えるエイリアン視が,PCゲームにおけるイスラム圏描写には付き物であると思う。サイードの指摘した「オリエンタリズム」の一部が,イスラム圏をめぐっては繰り返されがちだ。  本の話題に戻るが,この本がシリアのダマスカスにおける,1000年にわたる異教徒同士の共存を一つのモデルケースと考えて,サミュエル?ハンチントンの「文明の衝突」を明確に批判していることは,ドラクエ10 RMT,一つの見識だと思う。少なくともアメリカ政治に深くコミットする知識人が,イスラム教社会との宿命的な相容れなさを軽々に言い募るべきでは,やはりないように思える。著者が言うように,互いの違いは対立/衝突に帰結するとは限らないのだし,近代化=西洋化の構図を強要してきたのは,むしろ西洋側である。いまさら対話を諦められたのでは,イスラム圏だって立つ瀬がない。  また,イスラム教徒の大半は過激派の主張に対して批判的であり,国際社会の課題は,むしろ過激派にシンパシーを寄せる人を増やさないための歩み寄りであるという見通しは,いたって穏健なものといえよう。ゲームモチーフとしてもしばしば登場するイスラム教とムスリムに関し,総合的に理解しようと思う人にとって,この本はよい手引きになるはずだ。
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